赤のピンヒールで踊る

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プロメア:差異は同質化されなきゃ共生できない?

夏休みに入ったよ〜 ということで以下書く文は話のまとまらないメモであり、夏休みの研究テーマです。

 

 

プロメアは巷でも言われているように、中途半端に差別と共生の話を書いて、でもメインテーマがそこじゃないから描ききっておらず、その根本的な解決策やら結論やらは置き去りだった。

映画の中でバーニッシュは突然変異により誕生した炎を操れる人種として描かれ、おそらく少数派で、差別・迫害の対象であった*1。そして最後は完全燃焼したことによってバーニッシュと非バーニッシュの差は消えた(とされる)。

作品のテンションと見終わった後の爽快感によって大団円じゃーん!!!と思ってしまいがちだが、これって実は全然大団円じゃないんじゃないか?

プロメアが完全燃焼したことでバーニッシュという人種は消えたけど、ガロが示唆するように「今後お前ら(バーニッシュ)に降りかかる火の粉」が存在する可能性があるわけで。ピザ屋でピザを焼いているのがバーニッシュだったってわかった途端、何も害はないのに「気持ちわるい」といってピザを床に叩きつける市民のように 洞窟で「バーニッシュも飯を食うのか?」と笑ったかつてのガロのように バーニッシュがバーニッシュであるというだけで、そこには差別の構造が存在してしまう。

だがしかし、「バーニッシュだって人間」で、「腹は減る」し「仲間が死ねば悲しむ」のだから、その存在だけで差別されていいはずがない。ほんとうは、バーニッシュがバーニッシュとして認められている世界でお互いの存在が許されてなきゃいけなかったはずなのだ。(なんかつらくて涙出てきた)

完全燃焼してプロメアはもとの並行宇宙に帰って行って、バーニッシュという人種はいなくなりました、めでたしめでたし。になっちゃいけないんだよ本当は。

現実でも作品の中でも、往往にしてこのようなことは起こりうる。つまり、少数派の人たちが多数派に同質化・迎合することで大団円を迎えたような錯覚を覚えるのだ。

 

 

今まさに現実で起こっていることにも共通するなと思う。ので、そのへんは長い夏休みを使っておいおい考えていきたい。

 

 

*1:差別・迫害の対象であったことは作中描写から自明